財閥解体後の商社

財閥解体後の商社

関西五綿の躍進、財閥系商社の復活

戦後、貿易は政府の管理下に置かれ、商社はメーカーの代理商に。

吉田内閣の商社強化策により、商社は復活。財閥系商社の再生も実現し、総合商社化へ向かう。

弱体化した商社、躍進した商社

第二次世界大戦での敗戦後、日本はGHQ支配のもとで経済民主化政策が実施される。

GHQは戦時中、日本軍の中国・東南アジア進出に財閥系商社が主導的な役割を果たした点に注目して1945年日月、財閥解体の基本指令を出す。とりわけ占領地で精力的な事業活動を展開していた三井物産・三菱商事については、1947年7月の商事会社の解体に関する特別覚書によって、完全に解散されることになった。

その結果、三井は200数社、三菱は130数社にそれぞれ分割され、財閥商号・商標の使用や旧幹部が一つの会社に2人以上集まることを認めないなど、復活につながる動きが厳しく禁止された。

このように、戦前・戦中において日本の貿易を牽引してきた二大財閥が解体により弱体化するなか、商社の勢力構図は大きく変わる。中小規模の商社が乱立、やがて関西五綿や鈴木商店の流れをくむ日商、八幡製鉄の指定商社である安宅産業、岩井産業などが戦後貿易の中心として台頭した。

終戦後の対外貿易は、1947年8月に制限付きながら再開されるが、基本的には貿易は政府の厳しい管理下に置かれる。

また輸入についても、メーカーを優遇する外貨割当制度が採用されたため商社の力は弱まり、メーカーの代理商へと転落してしまった。

朝鮮動乱ブームと停戦後の反動

1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると、米軍特需や世界的な景気好転から日本経済に「朝鮮動乱ブーム」が巻き起こった。商社にとってもこの社会現象は輸出の大幅な拡大につながり、業績を飛躍的に伸ばすきっかけとなる。

だが、1951年7月に朝鮮戦争が停戦となるや事態は一変し、繊維品の大量キャンセルや、ゴム・皮革・油脂原料といった新三品の暴落が多大な損失をもたらして、関西五綿をはじめとする商社の多くが一気に苦境に陥った。

再編が加速、総合商社体制ヘ

朝鮮戦争の停戦による反動不況は、商社の脆弱な体質を露呈する結果となった。しかし、日本の経済復興における商社の役割が再認識され、1952年の第四次吉田内閣では商社強化策が打ち出され、体質改善が図られた。

具体的には、ゴム・皮革・油脂原料といった新三品の市況暴落で痛手を受けた関西五綿などの繊維系商社の救済や、輸出契約取消準備金制度など資本の蓄積が促進できるような税制優遇措置、過当競争防止のための輸出取引法の改正などが1953年から実施された。このほか外貨割当制度についても見直しが行なわれ、1953年には商社外貨保有制度が決定されるなど、さまざまな面で改善が進み、商社は再び日本の海外市場開拓の尖兵として、精力的に世界を駆け巡ることになる。

wor,ぷ-iI朝鮮制ーブーム11950年に勃発した朝鮮戦争に伴い、アメリカ軍より物資やサービスの発注という特需が発生した。この朝鮮特需は日本の高度経済成長の序章となった。

またこの時期、群雄割拠していた商社の統合・合併も加速する。1950年に入ると財閥の解散命令が緩和され、1952年の旧財閥商号使用の解禁によって、1954年に三菱商事の再生が実現、1959年には三井物産も大合同が成就し、以後、今日までこの2社が商社業界のトップを競うことになる。

非財閥系は合併で総合商社化

このような財閥系商社の復活と貿易事業の本格始動により、一時は勢力を伸ばしていた関西五綿をはじめとする商社は再び地位を下げた。そのため、これらの商社は財閥系商社に対抗すべく、鉄鋼・機械等の専門商社の吸収合併に力を入れ、伊藤忠商事は森岡鋼業や大洋物産を、丸紅は高島屋飯田をそれぞれ合併した。

ほかにも、日綿実業と丸永、東洋棉花と鐘紡商事、日商と信輿綿花、白洋貿易など、取事情通になるための商社の歴史扱商品の総合化を目的とした合併が相次いで行なわれ、そのことが結果的に商社の企業基盤の強化をもたらし、総合商社体制の確立を促すこととなった。

戦後における商社の再編成はその後、1967年の兼松と江商の合併(兼松江商誕生)、1968年の日商と岩井産業の合併(日商岩井誕生)と続き、1977年の伊藤忠商事による安宅産業の吸収合併を経て、一時期「大手総合商社」と括られた九大商社が出揃うのである。

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